米国には円高ドル安を望む瞬間というものがあります。
為替は結果ではなく手段
まず知っておくべきことは、米国にとって為替とは手段であり結果ではないということです。
為替が動く要因としてよく上げられるのが、金利、実質金利差、経常収支、財政収支、マネタリーベースなど、ですが、長期で見ると連動しているときもあれば逆に動く時もあります。
長期的には対外純資産がネットでゼロになる方向に為替が動き、短期では金利差や経常収支などが連動しやすいと思いますが、そもそも先行指標ではないので、まずそれらがどうなるかを予想する必要があり、その予想を当てても為替が連動してくれるか分からないといった具合に役に立ちません。
そしてもっとも重大な誤りは、為替レートは上記の要因が複雑に絡み合って形成される結果でしかないと認識しているところです。
上記であげた指標を見ても為替レートが予想できないのは当然です。
あるファンダメンタルズに変化がなくとも、米国がその時その時で米ドル安を望んだり望まなかったりするからです。
つまり、金利だのなんだのが絡み合った結果為替レートが定まるのではなく、米国は為替レートを手段として動かすことによって、むしろファンダメンタルズを動かしに行っているのだと私は考えています。
米国にとって大事な事は、財政赤字が拡大し過ぎないこと、インフレが高くなり過ぎないこと、景気が良いこと、この辺りです。
誤解を恐れずに言えば、上記が達成できるのであればドル円の水準などどうでもいいのです。
日本も、もし円高になっても景気が良くて、輸出も増えるのであれば、どれだけ円高でも問題ありませんよね。
為替レートそのものではなく、その先にあるものが目的なのであり、こと米国に関しては、その目的のために為替を手段として使ってくるのです。
目的が達成されるまでは為替水準はあまり重要ではありません。
米国の危機認識と通貨政策
では、米国はどのような時に米ドル安を望み、どのような時に米ドル高を望むのか、振り返ってみましょう。
下記チャートは米国の年間財政赤字対GDP比率、インフレ率、ドル円レートを1971年のニクソンショックからプロットしたものです。
(青:左)財政赤字対GDP比、(赤:左)PCE価格指数、(黄:右)ドル円レート
結論から言えば、米国は財政赤字、インフレ、景気に対する危機認識に応じて、為替レートを使って問題の解決を試みます。
グラフの①では、インフレはそこそこですが、財政赤字が膨らんでしまっています。そこで、ニクソンショックでドル安にし、景気回復、輸入抑制、輸出拡大を計り、結果財政赤字が改善しています。
②しかし今度はドル安の反動と第1次オイルショックで超インフレになってしまいました。そこで、金利を引き上げドル高にし、輸入物価の低減と国内の投資需要を冷やすことでインフレを鎮静化させることができました。
③では、ドル高にしたせいで輸入が拡大し、また財政赤字が大きくなってしまいました。そこでドル安にして、財政赤字を縮小させています。
④では、またまたドル安と第2次オイルショックで超インフレになってしまいました。しかも財政赤字も拡大しています。どちらを解決するか?、米国はドルを強くしてインフレの解決を選んだのです。財政赤字からインフレに危機認識がシフトした瞬間です。代わりにドル高によって輸入が大きく拡大し、財政赤字はさらに広がりました。
⑤では、インフレがようやく収まり、今度は財政赤字の解決に向かいました。有名なプラザ合意によって恐ろしいスピードでドル安になり、財政赤字が改善されていきます。
⑥では、財政赤字が改善されてきたため、米国はドル高選好に転じます。
⑦では、ITバブル崩壊や財政赤字拡大のため、ドル安選好に転じました。
⑧では、景気回復によりドル高に転じたものの、すぐにリーマンショックが起きてドル安選好になりました。
⑨では、ようやく景気が回復したためドル高選好にシフトしました。
このように米国は、財政赤字、インフレ、景気後退などに悩まされながらも、ドル高ドル安を使い分けることによって経済の舵取りを行ってきたことが分かります。
この間、金利や財政赤字などの動きと為替は必ずしも連動していません。
特に④のように、財政赤字拡大のようなファンダメンタルズが同じでも、米国が他の問題解決のために異なる対応を取ることがあるからです。
一貫しているものがあるとすれば、米国が何かを危機と認識した後、それを解決する方向に為替が動いているということでしょう。
つまり為替は手段なのです。
似たような話が書いてあるものはないかと探してみたら、素晴らしい博士論文がありました。
こちらの論文に引用されているヘニング氏の研究によると、”米国の通貨政策は「三つの段階」から成るサイクルの下で、変更を繰り返すという循環的なパターン” があるそうです。
第一段階では、米国政府は為替変動を放置する。
第二段階では、放置の結果問題が発生するため、米国政府は外国政府に対して解決のためのマクロ経済政策を要求する。
第三段階では、問題が解決しないとみるや、自らの政策対応の実施を含む政策協調を外国政府に呼びかける。
言われてみるとその通りですね。そして放置の間は難しいですが、米国が何か意図を持つのであればそれは予想することが出来ます。
また、論文筆者の増永氏によると、財務省、FRB、大統領、商務省、通商代表部、産業界、議会などの各アクターの「利益認識」によって、ドル安、ドル高のいずれかが「選好」され、為替の動きが容認・放置されたり、介入が行われたりするようです。
アクター間での選好が対立した場合、特に財務省の選好が優先されています。
このように米国は、財政赤字、インフレ、景気後退などの危機に対して為替を手段として使うことで問題を解決してきたのです。
米国の危機認識と通貨政策の詳細
米国の対応は近代化するにつれて変化してきています。
上記の①~⑨をより詳細に、イベントも含めて振り返ることで、米国がこれからどのような行動を取るのか考えるうえで役立てたいと思います。
①戦後から1971年のニクソンショックまで、世界の為替レートは固定相場制で、ドル円はGHQが決めた360円で固定されていました。
そもそも戦争が起きたのは保護貿易や通貨安競争が原因だったという反省があり、ドルを金と交換出来る唯一の基軸通貨(1オンス35ドル)とし、他国はドルと為替レートを固定することで為替を安定させ自由貿易を発展させる、この体制を1944年7月にニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた会議で協定が結ばれたことにちなんで、ブレトン・ウッズ体制と呼びます。戦争が終わる1年も前に決まっていたのですね。
しかし1971年8月15日、ニクソンショックが起きます。
<ニクソン・ショック – Wikipediaより
“(ニクソン大統領)為替レートを是正して主要国は対等に競争する時です。もはやアメリカが片手を背中に縛られたまま競争する必要はないのです。”>
冷戦やベトナム戦争などによる戦費拡大、社会保障費拡大などにより、米国は国際収支(経常収支+資本収支)が悪化しドルが世界中に流出、フランスやイギリスからの金の引き出し要求に耐えきれなかった米国は、ドルと金の兌換停止や輸入課徴金を課すことなどを宣言しました。これを受けて通貨は一時変動相場制へ移行し、ドルは暴落します。
そのすぐ後の12月にスミソニアン協定によってドルを切り下げた状態(1ドル308円)で固定相場制を再開させようとしましたが、ドル売りは止まらず、わずか1年3カ月程度で完全に変動相場制に移行しました。
結局ドルは260円程度まで下落しますが、ドル安の恩恵を受けて米国景気は回復し、貿易収支も1973年にはプラス転換、財政赤字は縮小していきます。
これはニクソンショックの狙い通りになったと言って良いでしょう。
ニクソンショックを意図的に行ったのか、行わざるをえなかったのかは見方による処ですが、米ドルと金のリンクが切れたことで、米国は米ドルという紙切れを渡すだけで物やサービスを消費出来るようになったのです。
②ところが、急激なドル安によって米国では徐々にインフレが高まってきます。
さらに第4次中東戦争が勃発、アラブ諸国は石油を武器として使い、親イスラエル国に対して石油禁輸措置や価格の引き上げなどの経済制裁を行いました。
原油価格はWTIで3.5ドル程度から11ドル程度まで跳ね上がり、米国はスタグフレーションに陥ります。
インフレに危機認識を覚えた米国はFF金利を引き上げドル高を選好し、輸入物価を抑え込み、国内の投資需要も高金利で冷やすことでインフレの鎮静を行いました。
この間も、財政赤字は拡大しています。
つまり、この時米国は財政赤字よりもインフレを危機として認識しており、インフレを抑えることが米国の利益であると認識していたのです。
③1976年あたりになって、ドル高によってインフレは静まりましたが、強いドルによって輸入が大きく拡大し、財政赤字がGDP対比4%にもなっていました。
『米国のドル安・円高容認から見送りへの転換過程(増永真)』によれば、”米国内では、日本が1974年の第一次石油ショック後、円安を利用して輸出主導の景気回復を図っており、米国の産業が不当な競争を強いられて、輸出拡大という利益が脅かされているとして、産業界や議会の対日批判が強まった.米国財務省は、こうした利益認識を直ちに共有することはなかったが、次第に産業界や議会と同様に、通商摩擦の解決と経常収支不均衡の是正を利益と考えるようになって、これに資するドル安・円高を選好するようになり、容認するようになった”とあります。
そして急激に円高ドル安が進行し、日本とは鉄鋼やカラーテレビなどで激しい貿易摩擦が起きました。
この急激な円高ドル安と、日本叩きによって米国の財政赤字は縮小していきました。
④ところが、財政赤字が順調に縮小していくなか、再び米国は高インフレに襲われます。
当時のジミー・カーター米大統領はドル安を容認できないとして、為替介入を発表し、FRBはドル買い介入と金利の引き上げを行います。これがカーターショックです。
しかしその後第2次オイルショックが起き、さらにインフレは加速します。
原油価格は第1次オイルショックから段階的に引き上げられWTIで15ドル程度になっていましたが、1979年のイラン革命によって欧米石油メジャーが追い出されたほか、新政権の実権を握るホメイニ氏が原油生産を大きく減らしたため、原油価格はわずか1年間でWTIで40ドル程度まで跳ね上がり、米国は再びスタグフレーションに陥ります。
1979年8月にFRB議長に就任したポール・ボルカーは1981年までにFF金利を史上最高の20%にまで引き上げインフレを抑え込みました。これがボルカーショックです。
この時の金利上昇により多くのS&L(貯蓄貸付組合:地域住民が資金を出し合い自分たちの住宅ローンを調達する目的の機関)の預金からはMMFなどに資金流出、さらに預金金利の上昇により不動産ローン投資は逆ザヤに陥り破綻しました。
さらに1981年からのレーガン大統領によるレーガノミクスでもスタグフレーション対策のために強いドルが志向されていました。これによってソロスの言うレーガンの帝国主義的循環がもたらされます。
この時期はドル高によって財政赤字が膨らみ続けていたにも関わらず、カーターショック、ボルカーショック、レーガノミクスとドル高となる政策が取られました。
つまり、ドル安によるインフレ進行の方が危険だという認識によって、ドル高が選好され、介入が行われたということです。
⑤インフレは鎮静化したものの、財政赤字とドル高がとんでもないことになっていました。
FRBの利下げによって1985年を境にドルの急落は始まっていましたが、1985年9月22日のプラザ合意でドル高是正のために各国が積極的に協調行動を取ることが宣言され、さらに円高ドル安が急激に進みます。
あまりの急激なドル安により、米国のアクター間で選好が対立しました。『米国のドル安・円高容認から見送りへの転換過程(増永真)』によると、FRBが物価と金利の安定を利益と考えドル安を選好しない一方、通商代表部、商務省などはドル安を選好し、財務省もドル安側と利益認識を共有していたのです。
その後1986年10月の日米蔵相会談などを経て財務省はFRBと利益認識を共有するようになったようですが、本気度はどの程度だったのでしょう。1987年2月のルーブル合意を経ても、円高ドル安は止まらず、市場介入を頑張ったのは日本だけでした。
その後1987年4月にレーガン政権が日本の半導体製品(パソコン、カラーテレビ、電動工具)に100%の制裁関税をかけ、ドル安がインフレにつながって来たことで、ようやくドル安容認からドル高選好にシフトしていきました。
このわずかな円安ドル高の間、日本は超円高水準でも対米黒字が増え続け、生産の海外移転がまだ進んでいなかったこと、円高不況とブラックマンデーの衝撃により日本政府が財政出動と日銀が利下げを行ったこと、円高メリットも享受して景気が良くなったことが重なり平成バブルが発生し、日本企業が次々と米国資産を買い漁りました。
一方米国はこの時の利上げによって第2次S&L危機が発生し、再び利下げに転じたため、⑤の期間は平成バブルの一時を除いてドル安選好でした。
また、1989年からの日米構造協議では、為替レートの是正によらず、経常収支不均衡の是正を目指すものであり、この辺りから米国はドル安効果の限界を認識し、直接的な内需拡大を要求するようになりました。
⑥1995年1月に米国財務長官がゴールドマンサックスのトップであったルービン氏に交代し、「強いドルは米国の国益」としてドル高選好に転じました。ルービン以降、米国の財務長官は原則として強いドルを望むようになりました。
私も米国のような過剰消費国がドル高を維持できるのは間違いなく国益だと思います、恐らく財務省の中で説得力のある理論が受け継がれているのではないでしょうか。
いずれ記事にしたいと思いますが、経常収支赤字と強いドルの両立は植民地支配と同じなのです。
強いドルによってアジア通貨危機とロシア危機が引き起こされLTCMの破綻などがあり、対円ではドル安に振れることもありましたが、基本的にはドル高基調でした。
⑦ドットコムバブル崩壊による景気悪化、ブッシュ減税、911テロを受けた防衛支出拡大などによる財政悪化を受けて、グリースパンFRB議長が低金利政策を実施、米国はドル安選好に転換しました。
⑧ドットコムバブルはバリュエーションのバブルであり、債務バブルでないので実体経済に大した影響はなかったのですが、あまりにも低い金利に据え置いていたので、景気回復に伴い徐々に利上げを行い、ドル高選好に戻りました。
しかしすでに形成されていた住宅バブルが崩壊し、リーマンショックが起きます。
⑨2013年になってFRBの量的緩和縮小観測(テーパリング)が出てきたことや、日銀の量的緩和によって円安ドル高となりました。
日本の要因でドル円が動くのはとても珍しいですね。
まとめ
こうして振り返ってみると、米国は財政赤字、インフレ、景気後退などの危機に対して為替を手段として使うことで問題を解決してきました。
ただし1995年のルービン財務長官以降は積極的にドル安を望むとは言わなくなり、貿易収支に関してはドル安の限界も認識しつつ、直接的な二国間交渉によって経常収支不均衡の是正を図るようにもなっています。また、現在の主要ターゲットは日本から中国に移っています。
しかしそれでも米国がそのような態度を取れば為替は円高ドル安に振れるのでしょう。
2000年以降は財政赤字よりも景気後退に対してドル安を望むことが多いように見えますが、インフレ、景気に問題がない中、次に危機と認識されるのは財政赤字の可能性が高いでしょう。
インフレについてはあまり心配ないと考えています。
なぜなら過去にインフレが危機と認識されたのはオイルショックがあったときの2回のみであり、オイルショックが無ければインフレは5%を超えたことがなく、この期間は異常値だと見なせるからです。
1989年に向けたインフレもプラザ合意で急激なドル安円高があった後の話であり、現在のような景気が良すぎるという理由でインフレが危機と認識されるほど高まったことはないのです。
しかしながら現在はFRBが金融引き締めを志向しており、利上げも終盤に入ってきたことでマーケットも織り込み切れていません。
12月のFOMCでは利上げが確定的と言われながらもマーケットの織り込みでは現状維持の確率を27%も見込んでいます。
出所:Countdown to FOMC: CME FedWatch Tool
また中国に掛けている2000憶ドル相当の関税10%は年明けに25%に引き上げられ、これはドル高要因です。
つまり米ドルの売りヘッジはまだ急がなくても良いのかなというところです。
そういうわけで、FRBの量的緩和縮小で起こるのは暴落か?日柄調整か?の記事にも書いてますが、米国株式市場については日柄調整くらいを見込んでおりあまり心配していませんが、米ドル安については財政赤字縮小のための手段として使ってくるのではないかと懸念しており、つまり、来年再来年くらいはドル安を予想しているため、年明けくらいにヘッジを開始しようかと考えています。
ちなみにプラザ合意から平成バブルの為替の動き、日米当局の対応などの理解には、上記で紹介した論文に加えて、下の2冊をお勧めします。
「バブル失政」は多くの取材によって日銀や政府の内部の動きが事細かに書かれており、それだけでも価値があるのですが、政治や中央銀行がいかに大きな影響を相場に与えるのかよくわかります。
「1985年の無条件降伏」はどちらかというと外側から見た平成バブルですが、平成バブル前から現在までの為替の動きとニュースが非常によくまとめられており、物事を俯瞰してみることが出来ます。
どちらも中古で数百円なので、特に金融の方は一読されると良いでしょう。
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